石持浅海『セリヌンティウスの舟』(光文社文庫)の杉江松恋氏による巻末解説。
石持作品には、登場人物がなぜそんな行動をしたかというHowdunitの要素に着目したものが多いが、本書はその中の白眉というべき作品だ。
おそらくうっかりミスだと思うのですが、編集者も気がつかなかったのでしょうか。
YOMIURI ONLINEの記事「「僕は秋葉原の犯人と同じ」、歌手マネジャー脅した男逮捕」に
発表によると、坂井容疑者は11日午後、歌手の奥井亜紀さん(36)の男性マネジャー(44)のパソコンに、「江坂(大阪府吹田市)に行きます。僕は無差別殺傷事件の犯人と同じ境遇で、事件を起こす動機は十分」などと書いたメールを送った疑い。
とあります。
相手のパソコンめがけて電子メールを送るというのは、そんなに簡単にできるものなのでしょうか。
であれば情報漏洩対策などに有効活用できそうな気がします。このメールは機密性が高いので会社のパソコンでなら受信していいけど家やマンガ喫茶のパソコンでは受信しちゃいけません、みたいな場合とか。
同じくYOMIURI ONLINEの記事「舗装道路ズタズタ、まるでクレーター…読売ヘリのルポ」より。
駒の湯温泉を離れ、南東へ5キロの荒砥沢ダム周辺へ。突然、目に飛び込んできたのは褐色の山肌。一瞬、鉱山の掘削場のようにも見えた。が、周りの緑や舗装道路が方々でずたずたに分断されている。異様だ。
最後の「異様だ」にものすごく違和感をおぼえます。
地震を起こした地球の側としてはごくあたりまえのことをしただけであり、なにも「緑や道路をずたずたに分断してやれ」などと思ってやったわけではないでしょう。
たしかに人間が苦労して整備した緑地や道路が一瞬にして破壊され、前日までとはおそらく一変しているのであろう様相を目の当たりにすれば、その理不尽さにぞっとするような思いがするにはちがいありません。
そして、これがたとえば敵対国からの空襲による被害の模様をレポートしたものだったのであれば、記事の中に「異様だ」という呟きがまぎれこんでくるのも納得がいきます。同じ人間のすることとは思えない、という驚きと憤りのニュアンスが、その呟きにはこもっています。
が、自然災害に対してこの言葉はちょっとどうなんでしょう。現場のすさまじさを伝えたいというのはわかります。でも相手は自然です。「せっかく作った道路だろうに」という無常感や徒労感、あるいは「ひょっとすると明日は自分の住む土地にも同じ運命が待ちかまえているのでは」という漠然とした不安、そうした思いに裏打ちされたコメントのほうが、よりふさわしいのではないでしょうか。
YOMIURI ONLINEの記事「地震で岩手・宮城の電機工場など停止、影響の長期化懸念も」に
トヨタ自動車の子会社で、グループの国内乗用車生産の1割近くを担う関東自動車工業の岩手工場(岩手県金ヶ崎町)は、生産ラインにつるした組み立て前の車体や、塗装ラインの装置が落下した。
とあるのですが、「グループの国内乗用車生産の1割近くを担う」が「関東自動車工業」(A)にかかるのか「関東自動車工業の岩手工場」(B)にかかるのか、非常にわかりにくいです。
地震の影響を主要産業の生産量への影響という視点から捉えようとした記事であるにもかかわらず、その影響の度合いがぼやけてしまっています。
こういう修飾節というのは「~関東自動車工業の岩手工場では車体や装置が落下した。関東自動車工業は[または「同社は」]トヨタ自動車の子会社としてトヨタグループに属し、[ここで(A)なら主語は繰り返しになるので特には不要、逆に(B)なら「その岩手工場は」と続けて]グループの国内乗用車生産の1割を担っている」とでもいうふうに分けて書けないもんでしょうかね。
asahi.com、6/8(日) 18:30付の記事「秋葉原で無差別殺傷 死亡7人、けが10人に」の最後に事件発生現場の背景として
最近はアニメの登場人物の服装を着た人や、ストリートミュージシャンの演奏などを目当てに、大勢の若者が集まっている。
とありますが、それどころではないんでしょうけど「服装を着た」というのはもうなんだかなぁという気がします。
昔「~という話をしていた」という意味で「~という話題をしていた」と書かれているのを頻繁に見る機会があって、これも気持ち悪かったのを思い出しました。
事件については「誰でもいいから殺したかったのなら、なぜ自分の住んでいるところの近所の人とか自分の家族や親戚といった手近な対象を選ばなかったのだろう」というのが最大の疑問です。一方で「誰でもいい」というのがありつつ他方で「どうせ殺すなら殺してもいいような人間を」というのが犯人の頭の中にあり、その「殺してもいいような人間」のカテゴリに相当するものが「秋葉原の歩行者天国にいるような連中」だったということなのでしょうか。